2019年2月10日

少し心に残していただけるような,じっくりした話を一つ。

世間では,オリンピックが盛り上がっています。自分も,斜に構えているのではなく,スポーツは大好きなので,自分なりに楽しんで見ています。

ただ,スポーツを美化しすぎることは戒めないといけないなと思ってはいます。

スポーツと不可分一体とも言える,「勝つ」ことについて,突き詰めるとどういう意義があるのかということについて。

自分の何年にも亘る苦しい司法試験の経験を通じ,感じたのは,「あくまでも試験は手段であり,目的地への到達ルートは一つではない」ということです。

本当に「裁判官,検察官,弁護士にしかできないことをしたい」のであれば,司法試験しかないかもしれませんが,そういう「地位,ステータスに身を置くこと」を目的にすると,後で後悔することが多いような気がします。

自分が何になるのかではなく,自分は何をしたいのかが重要,と考えます。

こう言うと自分探しとか言って批判されるかもしれませんが,内発的動機で動けるものが見つからないと,人生は苦役になってしまいます。

「今やっていることが楽しいかどうか」

自分は,もともと法曹になりたくて司法試験をやったわけではありませんでした。結局,最後までそうでした。

もっとグローバルなビジネスに,事業執行者として関わりたいという思いがあり,中堅商社・グローバルなメーカー・ファンドというキャリアを選択し,その基準では成功しているとは思います。

司法試験をやめなかったのは,法律の勉強をすることや試験でヒリヒリする場に行くことが楽しかったからとしか,今では考えられません。非合理的ですね。

周りにはさんざん反対されて法務部もない中堅商社に入り,事業開発という法律とはあまり関係ない仕事にたどりつきましたが,結果的には,試験や修習で培った情報処理力やアウトプット力は,M&Aや事業計画立案の場面で,大きな力を発揮しています。何が役立つかわからないものです。

でも今から振り返ると,少し考えれば(極論でなく),司法試験は取り組んでよかったが受からなくてもよかったと思います。

よかったのは,考え抜く経験や人生の意味を考える時間を得られたことです。もしかすると,「徹底的に努力したがうまくいかなかった」方が強い人間になれてよいとすら思います。

スポーツについては語る言葉を持ちませんが,試験については,「画一化させて純化した条件の下競争させて,個人の能力を最大限に引き出す競争システム」ということができます。

ですので,これは人間が作り出した人工的で特殊な空間です。しかし何年もやっていると当事者にはわからなくなってきます。

試験が自己目的化したり,ある社会的地位に就くことそのものが目的化することの危険性は認識しておいた方がよいと思います。ただ,その危険性を認識した上で,あえてそう目的を設定するのであれば,個人の選択であり,あえて否定はしません。

オリンピックでも,勝利者だけではなく,敗者や陽の当たらないマイナースポーツの競技者が,同心円の周辺部にいらっしゃいます。オリンピックに出場できなかった選手もいます。その辺り,テレビやその他のメディアを見ると,メダルを取った人間が非常な賞賛を浴びて,他には誰もいないかのような錯覚を覚えがちですが,個々人のレベルでは,競争それ自体が自己目的化したり,負ければ何もないかのような,特殊な条件下でのラディカルな勝利至上主義に流されないように気をつけたいものです。